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リチャード・ローティを脱構築する

『理戦』no.74, 2003 Autumn, pp.66-87.

橋本努

 

 

0.はじめに

「それを言っちゃぁ、おしまいよ」――世の中には、聞いてしまったら身も蓋もない答えが返ってくるような問いがある。哲学者リチャード・ローティが執拗にたずねまわるのは、そんな問いだ。とりわけ彼は、自身が身を置くアカデミックな正統哲学を無用であると告発し、哲学にルサンチマンを抱く人たちの生を肯定する。その魅力は、共倒れを覚悟で相手に最大のパンチをかますという、アイロニーの手法にあるだろう。相手を倒すが、自分もいずれ倒れる覚悟を決めておく。哲学に対する彼のアプローチは、そうした捨て身戦法にかける「意気込み」にある。

 だが一方で、ローティの痛快さを嫌う人も多い。批判者たちによれば、「ローティのいうアイロニストの語彙では、民主主義を支持する理由を次の世代へ伝えていくことはできない」。あるいは、「ローティの哲学的見解を棄ててはじめて、アメリカにおける高等教育の水準が回復される」、「ローティは右派のアラン・ブルームと同様に、余暇と教養のあるエリート層のことしか気にかけていない」、「もし大衆がローティのようにアイロニストの態度を取れば破滅的な結果(失業)を招きかねないので、相変わらず国旗に敬礼し、人生を真面目に受け止めるであろう」、「ローティは古臭いリベラリズム(福祉国家主義)の弁明を流行のポストモダンの言い回しによって着飾ったにすぎない」、といった批判がある[Rorty 1999=2002:43-45]。どれも痛烈なパンチだ。

これほどの批判を受けるローティにも、しかし幾ばくかの分があるにちがいない。政治思想の領域におけるローティの貢献は、一般に、リベラル派のイデオロギーを新たに再生したことにあると言われる。例えば、知的にスノッブであると同時に人類の味方であるような生き方(オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士であるような生き方)をめざすという主張。あるいは、人々が「哲学的になろうとする衝動」を挫いて、自己欺瞞的で哲学的に素朴なものがわれわれの制度の基礎を形作っているとみなす考え方。こうした奇抜なアイディアからリベラル派を擁護する彼の議論は、どこにその可能性をもつのであろうか。本稿では自由主義の観点から、内在的な応答を試みたい。

 

 

 

1.ローティの政治的立場

 ローティは自らの政治的立場を、アメリカにおける反マルクス主義の「左翼」であると表明している。それは歴史的にはホイットマンやデューイが構想したような、アメリカにおける夢としての民主主義を引き継ぐものである[Rorty 1998=2000:14]

ここで「左翼」とは、国家の理想がまだ完成されていないとみなす立場のことであり、これに対して「右翼」とは、「国家は基本的によい状態にあり、過去のほうがもっとずっとよかったかもしれない」と考える立場をいう。定義によって、左翼は進歩主義であり、右翼は保守主義である。左翼はまだ見ぬ夢を語るのに対して、右翼はすでに実現した理想を回復しようと訴える。

またここで「民主主義」とは、(1)精神的・文化的な領域における抑圧や権威の排除と、(2)所得再配分や福祉の充実にもとづく国内生活水準の平等化、という二つの目標を表すものである。前者は、宗教の徹底した世俗化による統治という意味での民主主義であり、後者は、経済の民主的制御という意味での民主主義[1]である。この二つの目標を掲げる立場を、ここで「リベラル派」と呼ぶことにしよう。

リベラル派は、一方では精神的・文化的な領域の問題を各人の自由の問題であるとみなし、フェミニズム運動、ゲイ-レズビアン運動、マイノリティ差別反対運動、などの実践を自由の拡大として評価する。しかし他方では、経済の問題を公的・民主的に取り決めるべき問題であるとみなし、市場経済の動きを制御すべきだと考える。こうしたリベラル派の見解に対立する立場としては、「リバタリアニズム(自由尊重主義)」、「権威主義」、および、「保守主義」の三つを挙げることができる。

「リバタリアニズム」とは、精神的・文化的領域と経済の領域の問題をすべて各人の私的配慮と関心にゆだね、個人の権利の問題のみを公的に保障しようとする立場をいう。これと真っ向から対立する立場は「権威主義」であり、それは、いずれの領域をも公的な問題であるとみなして、一方では、精神的・文化的領域において共有されるべきモラルを求め、他方では、経済的に共有されるべき資源を制御しようとする。第三に「保守主義」は、精神的・文化的領域において共有されるべきモラルを掲げる一方で、経済の領域では各人の関心を自由市場経済にゆだねるべきであると主張する。なお、現代のアメリカにおける新保守主義(=ネオコン)は、世界を民主化する運動を掲げる点では「左翼」であり、また、精神的・文化的領域におけるモラルを促進しつつ市場経済と統制経済の中間(混合経済)を望ましいとする点では、権威主義と保守主義の中間に位置づけられるであろう。

 以上の四つの立場、すなわち、リベラル派、リバタリアニズム、権威主義、保守主義、という類型からローティの「リベラル派」を位置づけると、それは、新自由主義の諸政策を肯定したクリントン政権よりも前の「旧い民主党の理念」、すなわち、福祉国家主義のそれであるということになる。そしてローティは、自らが寄って立つリベラル派のイデオロギーを、哲学的・理論的な原理によって基礎づけるのではなく、歴史的状況のなかから偶然に採用されるべき立場であるとみなしている。

ではなぜ、ローティはリベラル派の立場を擁護するのか。一つには、「ユートピア的な希望」を政治政体の問題として語ることそれ自体が「自己創造」として望ましい、ということなのであろう。そしてこの主張は、1960年代以降に左翼知識人が政治から身を引いて「文化左翼化」したことに対する批判としての意義をもっている。もう一つには、「残酷さ」を避けることが道徳上の最重要課題であるとみなすジュディス・シュクラー流の政治理論を採用する、という点にあるだろう。後者の点については後に検討するとして、まず前者の「自己創造」について吟味したい。

「自己創造」という理念がなぜリベラル派のイデオロギーに結びつくのかについて、ローティの主張はあまり明確なものではない。ローティは、「リベラルな社会のヒーローは強い詩人とユートピア的な革命家である」として、「理想的なリベラルな社会は、詩人や革命家がもっと容易に生きていけるようにする、という目的だけを抱く」[Rorty 1998=2000:127-129]と述べている。この主張を敷衍するならば、人々はさまざまな詩人やユートピア革命家を「生き方のモデル」として尊敬すべきこと、そして彼/彼女らの反抗精神を日々の活動の糧として、制約からの解放という意味での自由を推進していくべきだ、ということになろう。しかしこの自己創造論が、ローティの中で「所得再配分」の問題と結びつくのはなぜだろうか。

ローティは、精神的・文化的な領域というものを、実際には各人の自由にゆだねるのではなく、詩人やユートピア革命家といった人格のもつ指導性(グラムシのいうdireczione)によって、さまざまな方向へ実験を試みていくべきだとみなしている。言語の世界開示的な機能(詩的言語の自由な創造)を公共的に利用するために、民衆は詩人やユートピア革命家たちを敬いつつ、その非生産的で自由な活動を財政的に支援する必要がある、ということなのであろう。ローティのみるところ、政治理論家が民主的合意に関する構想を語る社会よりも、詩人がリベラルな政体について希望を語る社会のほうが望ましい。ただしその場合、詩人はリベラルな希望を語るために、アイロニーを捨てなければならない。アイロニーを捨てて、社会民主主義の希望にコミットメントを示さなければならない。そしてこの立場を表す気の利いた言葉が、「ポストモダン・ブルジョワ・リベラリズム」である。

 

 

 

2.ポストモダン・ブルジョワ・リベラリズムの検討

 もともと左翼思想の中の反近代主義が資源となって出現したポストモダニズムは、現実の社会においては、80年代の中産階級の豊かな消費生活と連動しつつ、政治的には民営化路線を掲げる新自由主義のイデオロギーと結びついてきた。それは一方では、フーコー流の「主体の死」の後に現れる「軽薄で脱中心化された無定形な自我」や「消費社会の記号的生活に戯れる自我」を肯定し、政治的には「国民国家共同体主義に基づく生産力の増強」という目標に代えて、「国民国家統合を拒否する文化の政治学や自由経済擁護論」を補完してきた。この時代をもって、ポストモダン・ブルジョワ自由主義と呼ぶことがある。

ローティはこの時代思想に対して、一方では「ポストモダン・ブルジョワ」を肯定しつつ、他方では「自由主義」を否定する立場をとる。厳密に言えば、「自由主義(リベラリズム)」という言葉には二つの相対立する意味、すなわち、市場自由主義と福祉国家主義の意味があって、ローティは前者を否定して後者を肯定する。ここでは市場自由主義を「新自由主義」と呼び、「福祉国家主義」を「リベラリズム=リベラル派」と呼ぶことにしよう。するとローティの立場は、新自由主義を否定する「ポストモダン・ブルジョワ・リベラリズム」だということになる。

「ポストモダン・ブルジョワ」と「リベラリズム」を同時に肯定する政治政体は、しかし未だに存在していない。ポストモダンは、1980年代以降の新自由主義や新左翼と親和的であるのに対して、リベラル派は、国内における所得格差是正を掲げる福祉国家主義や社会民主主義の経済観と結びついているからである。

 ローティが「ポストモダン・ブルジョワ」を肯定する理由は、共同体主義(コミュニタリアニズム)に対する彼の批判にある。ローティによると、共同体主義は次の三つの要素から成り立つ。第一に、プラグマティズムは啓蒙の合理主義の必然的所産であり、それは道徳的共同体を可能にするほど強い哲学ではない。第二に、自由主義の制度や文化が生み出す人間は、望ましい人間ではない。第三に、政治制度は人間本性に関するある教説を「前提」し、それは自我が本質的に歴史的性格を有することを明確にしなければならない。以上の三つの命題を掲げる立場が、共同体主義であるとされる[Rorty 1988:169]

 これに対するローティの応答は、リベラルな社会が哲学的前提に訴えなくても可能であること、またそれは歴史的所産であり、普遍主義を僭称するものではないという点にある。ローティによれば、人間存在の目的や本性は、私的領域の問題であって政治的・公共的な問題ではない。公共の問題とは、人々のあいだで重なり合う信念に関する「合意の問題」であり、この問題は、一定の人間本性の理念に基づいて政治の究極目的を正当化することではない。何が排除されるべき信念であるか、何が重なり合う共通の信念であるかについては、歴史的・社会的状況によって異なるのであり、究極的なものなど存在しない。道徳的進歩とは、原理や権利や価値の普遍性が浸透することではなく、むしろ、状況内にある個人や共同体の、対話的意見交換や反省的均衡や詩的業績の歴史の中から生まれるという。共同体主義は、強い価値を共有する社会体を理想とするのに対して、自由主義は、諸価値の基底にある正義という理念を共有することこそ、道徳の進歩であると考える。そしてローティは、正義への合意を求める自由主義の立場に立っている。

ただし、こうした自由主義の立場から肯定される社会は、ある意味で打算的なものであることをローティは認めている。「自由主義民主国家の典型的性格類型が、たしかに〈間の抜けた、打算的で、狭量で、非英雄的なもの〉だとしても、そういった人々の横行は、政治的自由を守るための、理にかなった犠牲なのかもしれない」。つまりローティによれば、消費社会が肯定する軽薄なポストモダン・ブルジョワというものは、「理にかなった犠牲者」として肯定されるわけである[2]。ローティが推奨するのは、むしろ私的領域における文芸と哲学の追求であり、知による魂の自己救済である。しかしいずれにせよ、個人の人格的探求を私的なものに留めるというローティの立場は、公共的・制度的なレベルでは、「中心のない信念と願望の網の目」という人間像を肯定せざるを得ない。ある意味でこの立場は、文化的・精神的な自由主義を制度的に体現した社会の自画像でもあるだろう。

 「ポストモダン・ブルジョワ」の生活をプラグマティックに肯定するローティの立場は、しかし次のような問題を孕んでいる。ここでローティのいうプラグマティズムとは、道徳的・哲学的に軽薄であることや物事を美的観点から見ようとする自発的態度が、「世界の人間を、よりプラグマティックに、より寛容に、より自由主義的にし、道具的理性の訴えをより受け入れやすくするのに役立つ」という考え方である。はたしてこの主張は正しいであろうか。例えば私たちは、自らの道徳的軽薄さを肯定するとしても、政治家に対しては自分ほど軽薄でない生き方を期待するのではないか。あるいは、ローティは文芸批評家こそがわれわれの時代の「知の主宰者」であると評価するが、しかし多くの文芸批評家は、体制全体の有り様をプラグマティックに擁護する立場に自らのアイデンティティを重ね合わせることはない。ローティ流の人間観および文芸批評家賛美は、政治的にはむしろアナキズムやリバタリアニズムを肯定することに接近するのではないか。

これに対してローティは、文芸的な「ポストモダン・ブルジョワ」的自由の政治的な帰結であるアナーキーを避けるために、政治経済的にはリベラル派の立場をあえて接合する。すなわち、政治経済の領域においては、一定の社会的経済統制を認めるのである。

ここで少し見方を変えるならば、ローティの議論は、豊かになった中産階級の「幸福の神義論」であると言えるだろう。すなわちそれは、文芸的な空想の世界ではアナーキーな自由を享受しつつ、経済的には不安のない生活を保障してくれる福祉国家の体制を肯定することが「幸福の条件」であるとみなすのである。実際、フーコーやニーチェやハイデガーやマルクスを読んでいる知的な中産階級の人々は、大思想家たちの危険なイデオロギーに魅了されながらも、実生活においては福祉国家の理念に共感を持ちつつ、日々の生活を暮らしている。そうした私たちの凡庸な生き方を世俗的に肯定してしまおうというのが、ローティの神義論である。

ここにはアイロニカルな洞察がある。ローティによれば、間の抜けたマルクス読みの打算的な生活を否定するような社会は望ましくない。むしろ、世俗的な民衆のささやかな幸福をアイロニカルに肯定すべきであるという。この主張はしかし、どれだけ説得力があるのだろうか。節を改めて、アイロニストの生き方について検討してみたい。

 

 

 

3.アイロニストの三つの顔

 ローティのいうアイロニストの特徴を要約すると、次のようになるだろう。まずアイロニストは、自分が現在使っている語彙を徹底的に疑い、絶えず疑問に思っている。また彼は、この疑念を解消するための語彙を、現在の語彙の中から見つけ出すことができないと考える。なぜなら、他の語彙に、つまり自分が出会った人々や書物から受け取った終極の語彙に、彼は感銘を受けているからである。アイロニストは、自らの語彙が偶有性と脆さに晒されていることを意識するがゆえに、自分自身を真面目に受け止めることができない。「アイロニストは、自分は誤った言語ゲームを演ずるように教えられてきたのではないか、そんなことがありうるのではないか、と憂慮して過ごしている」[Rorty 1989=2000:156]

他方でローティのアイロニストは、新しい語彙を旧い語彙と競わせつつ、新しい語彙に勢力を与えることによって、最大の快楽と社会的効果を引き出そうとする。アイロニーの対極にあるのは「常識」であり、「業界屋のパラダイム化された語彙」であり、また「政治的・芸術的に真面目なコミットメントを誘う語彙」である。これらの三つの語彙をはぐらかしながら新しい知的快楽をもたらすことこそ、アイロニストの流儀に他ならない。

ローティ流のアイロニストが社会的に何か役割を果たすとすれば、それはおそらく、次の三つの筋道を通じてであろう。すなわち、(1)成長論的自由主義の推奨、(2)強い詩人と文芸批評家の役割に対する評価、(3)討議を避けて合意を得るというリベラル派実力政治の肯定、である。私は(1)(2)の筋道を評価するが、(3)に対しては批判的である。それぞれについてみていこう。

(1)成長論的自由主義の推奨:ローティのアイロニストは、私が「成長論的自由主義」と呼ぶ立場に通底する人格理念をすえている。すなわち、科学主義的かつ正当化主義的な知の営みを批判して、啓発的な知の営みによる人間の人格的尊厳を確保するという関心である[3]。この点においてアイロニストは、人格性と誠実さの観念を持ち合わせている。

ただしローティの議論は、正当化主義の難点を克服したウェーバー以降の社会科学方法論を論じていないという貧弱さを免れない。正当化可能な事実にかんする語彙と詩的な語彙のあいだには、成長論的で可謬主義的な規範科学の語彙があるということを、ローティは考察していない。またローティは、トーマス・クーンの科学論を肯定的に捉える際に、「革命的な科学者」と「追従的な科学者」の行動を、どちらも「プラグマティズム」の観点から評価してしまうが、ここにも難点がある。ある特定のパラダイムから別のパラダイムに速く移るか、それともゆっくり移るかという問題は、組織を生き抜くためのプラグマティックな問題である。「さきがけ隊」と「後続隊」はどちらもプラグマティックに行動しているが、しかしローティが自由な創造を推奨する場合、パラダイム科学への追従者が抱くプラグマティズムを消極的に評価しなければならないはずだ。「権威づけに弱い人間」よりも「権威を必要としなくとも逞しく楽観的に生きていくことのできる人間」を評価するローティの人間学は、ある意味でプラグマティックな組織人に反する含意を持っている。

(2)強い詩人と文芸批評家の役割に対する評価:他方でローティは、知の成長にとって建設的な批判をするよりも、その分野のパラダイムに反抗しながら、そこに変則的なもの(皮肉やパロディやアフォリズム)を持ち込むことで、知のあり方を啓発(edification)することのほうが望ましい、と考えている。なるほど世の中には、取るに足らない知識をまじめに擁護したり勉強したりしている研究分野がある。そういった分野の知識を内側から建設的に批判しても、知識の躍進的な成長は起こらないであろう。詩的であることは、閉塞する通常科学に抗して、新しい可能性に賭ける企業家精神を発揮する場合がある。例えば、事物の語彙に対して人格の語彙を救うこと、一義的な答えの見つからない問いを発しつづけること、美徳や信念を正当化するのではなく投企する希望と勇気を持ちうる社会を構築すること、詩人の力を借りて学問を啓発すること――こうした提案を知の成長に結びつける点で、私はローティの立場が科学的営みを補完する機能を担うと考える。

 ただし、詩人や文芸批評家を英雄視するローティの立場[4]は、プラグマティックに言えば、合意をめざすリベラル派の政治言語とは強い結びつきをもたない。詩的言語のもつ政治性は、その都度の社会状況に応じて変化するであろう。またそれを制御することは不可能であるだろう。さらに、文芸批評家は、知の主宰者であるとしても、主宰者の立場からして、宴の参加者たちから特定の合意を引き出す役割を引き受けることはないであろう。

(3)討議を避けて合意を得るというリベラル派実力政治:ローティは、一方では詩的言語の強調によって「討議」を避けようとする[5]が、しかし他方では、詩的言語というものを合意の調達手段であるとみなしている。彼は、ニーチェやハイデガーやデリダのような哲学者たちの主張の真価が、私的なアイデンティティの感覚を鍛えることに資すると認め、そしてこの感覚をリベラルな政治政体への希望へと調停するために、共通の「詩化された」目標への合意が必要になると主張する[6]。しかしこの見解は、自由主義が最も嫌悪すべき「全体主義」のイデオロギーに接近するのではないか。というのも、ローティは、真理は自由で開かれた闘いにおいてつねに勝つのではなく、闘いの結果がどんなものになろうとも、それを喜んで「真である」と呼ぶ社会がリベラルな社会なのだと主張するからである[7]。この主張は、ローティのイメージする「標準的なブルジョワ的自由」を裏切って、「力が真理を生みだす」というマキァベリ的政治観を帰結する[8]

その危険はとくに、多くの人々がアイロニストであるような社会において、凡庸なアイロニーを出し抜く気鋭のアイロニストが、保守主義のレトリックを駆使して本質主義を復活させるような社会に当てはまるであろう。実際、現代アメリカのネオコン・イデオロギーは、レオ・シュトラウスの政治哲学をその思想的基礎としており、それは現代のポスト本質主義・ポスト形而上学の世界において、本質主義と形而上学を復活させる企てに他ならない。ポストモダン状況における本質主義と形而上学は、政治的には最も成功しうるアイロニーではないか。ローティの議論は、こうした本質主義のレトリックを拒否する論拠をもたない。

また例えば、ローティは、消極的自由の理念を掲げるアイザイア・バーリンの自由主義を支持するが、その理由は限りなく貧弱である。「バーリンの立場が『相対主義』だという主張について論じることから私が引き出したい教訓は、こうした非難に対してまともに応じるべきではなく、むしろはぐらかすべきだ、ということである。…社会制度への忠誠は、馴染みのある、共通に受け入れられた前提によって正当化されるべきものではないのだが、だからといってそれが恣意的なものだというのでもない。友人やヒーローの選択と同じなのだ、と考えるべきなのである」[Rorty 1989=2000: 115-116]。ここでローティは、正当化のレトリックに代えて、友人やヒーローの選択という偶然性と可変性の高い選択基準を採用している。しかしこのことは、リベラリズムへの忠誠を捨て去ることをいつでも容易にする。例えば現代のアメリカ社会において、リベラリズムよりもネオコンのイデオロギーに魅力を感じる民衆は、まさにヒーローへの希求から偶然にもこれを支持するのではないだろうか。ローティのいう「友人やヒーローの選択」という議論は、バーリン的な自由主義をいつでも捨てることができるという含意をもっている。

 また、詩的言語を政治的合意の調達手段として位置づけるローティの立場にも難点がある。シャンタール・ムフによれば、ローティは、価値の対立がはたす重要な統合機能を理解していない。「『合意』が特権化されているところには、民主主義の本性についての重大な誤解が示されている」。「どういう合意でも暫定的なヘゲモニーの一時的結果として現れること、つまり力が固定された結果として現れること、そしてそこにはつねに何らかの排除が起こることを認めてはじめて、民主政治を別の仕方で試みることができる。」「民主政治に哲学的反省が欠かせないのは、力や対立は根絶できないという事実から生まれるありとあらゆる結果を考えてみる必要があるからだ」[Mouffe 1996=2002: 17, 20, 21]。つまりムフによれば、イデオロギーが一つに収斂しなくても社会は機能するのであり、さまざまなイデオロギーを持った人たちが闘争する空間こそ、かけがえのない政治空間だというのである。

これに対してローティは、「争点の絞られたキャンペーン」を支持して、「争点の多様な社会運動」というものを評価しない。その理由は、合意よりも討議空間の公共性を優先する政治政体に主導権を与えないためであろう。ローティによれば、知的反省としての学問が政治的影響力をもたない社会こそ、リベラルな合意社会であるという。

ローティはしかし、他方で、フェミニズムなどの運動が個人の自由の拡張に貢献してきたことを承認している。だがこうした社会運動は、「私的なものが同時に政治的なものである」という実践感覚に根ざすものであり、私的領域と公的領域を明確に区別するローティの立場からは導かれない[9]。ある意味で、自由を拡張する政治運動の実践は、ローティの流のプラグマティックな合意-政治を棄てたほうがうまくいくのかもしれない。ここにはプラグマティズムのパラドクスがある。プラグマティズムの方法は、必ずしもプラグマティックにうまくいくわけではないのである。

 以上、みてきたように、ローティのアイロニストは、成長論的自由主義、強い詩人と文芸批評家の肯定、討議を避けるリベラル派の実力政治の肯定、という三つの特徴をもっている。これらのうち、最初の二つの特徴は肯定できるが、第三の特徴は問題を孕んでいる。およそリベラル派の実力政治を詩的言語によって肯定することには、さまざまな難点がある。しかしローティは、別のところで、リベラル派の政治理念を、「社会科学」の擁護、および、「残酷さ」の倫理学から肯定しようとしている。それぞれについて、節を改めて検討してみたい。

 

 

 

4.リベラル派と社会科学の結合

 リベラル派の政治を擁護するローティは、公共のレトリックがアイロニストのものであるべきだとは主張していない[10]。むしろ福祉国家社会に必要な教育と行政は、アイロニストのそれとは正反対の、教養的・社会科学的な語彙によって導かれるへきだとみなしているようである。彼の立場を明確に表すならば、私的には魂の救済を重視するアイロニスト、公的には政府の活動を重視するモラリスト、ということになるだろう。ローティによれば、アイロニストの効果が社会を弱体化させないために、公共領域においてはモラリストとして振舞うことが望ましい、というわけである[Rorty 1989=2999:175-176]

 この考え方をよく示しているのが、ローティの「解釈学的転回」論である。解釈学的転回とは、実証主義や行動主義の論理的な語彙に代えて、人文科学の豊かでレトリカルな語彙の地位を再生させようとするものである。しかしローティによれば、解釈学の支持者たちは、解釈学的転回というスローガンによって、「同胞に対して何をなすべきかを決断するのに、行動主義的な用語を使う政策担当者のようにはなりたくない」という意向を表しているにすぎない[11]。実際には、行動主義と解釈学は、いずれもただ役立ちそうな語彙を探しているにすぎず、反基礎づけ主義とプラグマティズムという点では一致する。したがってローティのみるところ、私的・文化的領域においては解釈学の方法を用い、公的・行政的領域においては行動主義の方法を用いることに、何ら矛盾は生じないのである。

ただし、公的・行政的な領域における社会科学の用法として、次の二つを区別することは有意義であろう。一つはデューイが示したように、社会科学の道徳的な意義――つまり、私たちの社会に開かれている可能性について、私たちのセンスを広げたり深めたりするうえでの社会科学の役割――を強調することであり、もう一つはフーコーのように、社会科学が「規律訓練社会」の道具として使われる仕方を批判する、という方向である[Rorty 1982=1985:437]。社会科学方法論におけるローティは、デューイを評価してフーコーを退ける。社会科学における真理への意志は、支配への意志ではなく創造への意志であるかぎり、その衝動は認められるというのである。

プラグマティックに言えば、デューイとフーコーを分かつのは、福祉国家が「規律訓練権力」という悪しき側面を持つことに対して、どこまで楽観的でいられるのか、という問題であるだろう。デューイとローティは、福祉国家制度の創設段階において自由な想像力が求められるという点を強調する。これに対してフーコー(あるいはこれを政治学に応用する根源的民主主義者たち)は、福祉国家制度のたそがれ期において、社会制御(ガバナンス)の悪しき側面に焦点を当てる。ローティとフーコーの対立点は、福祉国家のパフォーマンスがどれだけ有効かつ有意義なものであるか、という問題に帰着する。ならば、福祉国家を分析するための理論作業というものが欠かせないであろう。

しかしローティは、実際には社会科学の方法についてほとんど有益なことを語っていない。彼がアイロニストと福祉国家の行政エリートを結びつける際には、解釈学と行動主義の中間にあるウェーバー以降の理解社会学を支持しなければならないはずである[12]。しかしローティが次のように述べるとき、同じ批判はすべて彼自身にもあてはまる。

 

「大学の文化〈左翼〉は、市場経済に代わるものがどういうものであるか、あまり考えていない。また政治的自由と中央集権化した経済的意思決定を結合する方法についても、あまり考えていない。…〈右翼〉が社会主義の失敗を宣言し、資本主義が唯一の選択肢であると宣言するとき、この文化〈左翼〉はほとんど何も答えられない。それというのも、この文化〈左翼〉は金銭について語ることを好まないからである。」[Rorty 1998=2000:84]

 

 ローティは経済学の語彙を評価しつつも、自らはそれを用いず、むしろ「教育」によって、次世代の人々に社会科学的な思考を身につけてもらうようにと希望を託している。「デスクの前に座ってキーボードをたたいているわれわれが、手を汚してトイレを掃除してくれる人々の十倍、われわれが使っているキーボードを組み立てている第三世界の人々の百倍の報酬をもらっているというのは耐えきれないと思うように、私たちの子供を育てるべきである」[Rorty 1999=2002:263]。ここでローティは、自分ができることを政治的に考えるよりも、教育や文化といった手段を通じて、子供たちに問題解決の責任を押し付けようとしているのではあるまいか。政治経済の領域におけるローティは、プラグマティックな判断力を示すかわりに希望を語るのみである。そしてただ希望のみを語る文化エリートは、社会科学的に冷徹な分析と判断を避ける傾向にある。このことは、結果としてプラグマティズムからの撤退を意味するであろう。

 

 

 

5.リベラル派と残酷さの倫理学

みてきたように、ローティの哲学は、公的領域における社会科学の意義を承認しつつも、その方法的な問題を避けている点で、リベラル派擁護論としては貧弱である。ではローティの第二の論点、すなわち「残酷さの倫理学がリベラル派の理念を支持する」という考え方はどうであろうか。

ローティは、業界哲学者たちの生き方よりも、ニーチェやハイデガーを読みながら私的生活における魂の救済(精神的生活の充実)を企てるアイロニストのほうが、生き方としてすぐれていると主張する。しかし、ニーチェやハイデガーを読む人は、必ずしもカントやデカルトを読む人より道徳的感受性においてすぐれているわけではない。そこでローティは、オーウェルやナボコフの文学を持ち出して、哲学よりも文学の方が、道徳的感受性を鍛えるものだと主張する。とりわけ「残酷さ」に関する感受性を育むためには、哲学的な倫理学を学ぶよりも、文学を読むほうが適している。そしてローティによれば、オーウェルやナボコフを読むアイロニストは、「残酷さの回避」を第一の政治的課題とみなす点で、リベラル派の立場に結びつくという。

ここで「残酷さ」を避けるリベラル派とは、文化・精神的領域においては、他者に対する道徳的侮辱を避けるために「個人の尊厳と表現の自由」を掲げ、政治経済的領域においては、貧しさがもたらす残酷さを減らすために、「社会的正義と所得格差の是正」を掲げる立場をいう。この立場をどう評価すべきであろうか。

まず、「個人の尊厳と表現の自由」が残酷さ(侮辱)を避けるために必要である、というローティの考え方から検討をはじめよう。一見すると「表現の自由」は、侮辱を与えることの自由を容認する。むしろ、表現の自由を制約した場合のほうが、多くの侮辱を回避できるであろう。しかしローティによれば、尊厳をもつ諸個人に対する侮辱を避ける方法は、各人が自らの言動を「自覚」することでしかない。表現の自由を政治的に制約するならば、品位あるアイロニストの市民生活を制約してしまう。むしろ侮辱を避けるための品位は、教育による公共道徳の醸成を通じてもたらされるであろう。ローティは、「侮辱humility」を避けるための政策として、教育の質を高めたり、貧しい人々に教育の機会を与えたり、表現の自由を確保して多元的な政治的影響力に機会を開いたりするという実践を提案する。

しかし「残酷さ」の回避という主張は、リベラル派に固有の政治的主張ではない。ローティは「残酷さこそが、われわれのなしうることのなかでもっとも悪いことだ」という主張をジュディス・シュクラーから引いているが、その道徳観は、カントではなくヒュームやモンテーニュの道徳哲学的見解を採用したときに見出されるものである。ところがケイクス[Kekes 19962002:73-74, 81]によれば、ヒュームやモンテーニュはリベラル派ではなかったのであり、とくにヒュームはトーリー党の保守主義者であった。つまり思想史的に見れば、残酷さを避けるという道徳は、保守主義の道徳観とも両立してきたのである。残酷さとは、「持てる者が自らの目的を自由に追求する結果として、持たざる者が精神的・物質的に苦しむ」という意味である。保守主義者であれば、残酷さを減らすために、持てる者の行為を制約すればよい、と考えるであろう[cf. Topper 19952002:49-51]

また、「残酷さ」という言葉の二つの意味、すなわち、「物質的な次元での苦痛」と「精神的な次元での侮辱」を区別しなければならない。「苦痛の回避」という功利主義的かつ行政的に処理可能な政治課題は、「侮辱の回避」という名誉毀損の法的問題や品位の洗練化という文化的・社交的問題とは異なる。苦痛としての残酷さは、持てる者が持たざる者に対して、意図せざる結果として及ぼしてしまうものである。これに対して侮辱としての残酷さは、他者の自尊心に対して意図的にもたらされるものである[Gander 19992002:83-87]。ローティは「侮辱」の問題と「苦痛」の問題を同列に扱っているが、しかし両者は倫理的な質において区別されるものだろう。

最後に、オーウェルの『1984年』を高く評価するローティの政治構想は、皮肉にもオーウェル的観点に照らして、退けられることになるかもしれない。オーウェルが批判する社会は、日常の語彙が絶えず人工的に変化してしまうような世界であり、また、経済の統制によって自由を拘束される社会である。ここで批判されている社会は、ローティの目指すリベラル社会とそれほど遠くない。というのもローティは、一方では、日常の語彙が詩人や文芸批評家たちの活動によって絶えず新しい語彙に変化させられていく社会を理想としており、また他方では、経済の民主的統制を理想としているからである[cf. Bernstein 19912002:14]。もしオーウェルの『1984年』に描かれた社会の対極が理想であるとすれば、それはオーストリア学派のミーゼスやロスバードが構想したような、アイロニーの効かないリバタリアニズム的な普遍主義ではないだろうか。

 以上の議論をまとめよう。ローティにおける二つのリベラル派擁護論、すなわち、「私的アイロニストと公的モラリストの結合」および「残酷さの倫理学」は、いずれも確固たる論拠をもたない。前者の議論は、公共的領域における社会科学の位置づけにおいて貧弱である。また後者の議論は、文化的・精神的領域における「侮辱」の問題と政治経済的領域における「残酷さ」の問題を恣意的に結びつける点に、難点がある。結論を言えば、ローティのリベラル派擁護論にはかなりの無理がある。しかしそれでもローティの思想に魅力があるとすれば、それは政治を「未完のプロジェクト」とみなすこと、そしてその政策を「自生化主義に基づく内生的な普遍」(と私が呼ぶ理念)によって導く点にあるだろう。最後に、この点について検討してみたい。

 

 

 

6.自生化主義と内生的普遍

本稿のはじめに触れたように、ローティの面白さは、「知的にスノッブであると同時に人類の味方であるという生き方」を称揚し、また、人々が哲学的になろうとする衝動を挫きつつ、「自己欺瞞的で哲学的に素朴なものがわれわれの制度の基礎を形作っている」と主張する点にある。ここでこの二つの主張を、もう少し受け入れやすいかたちに言い換えてみよう。

例えば前者の主張は、「たえず特定の文脈から逸脱しながら、コスモポリタンの文化的紐帯を内生的に拡張しつつ、そこに人類愛の連帯可能性を探るような生き方を称揚するもの」と解釈することができる。また後者の主張は、「哲学への衝動とその効用を、社会制度の基礎づけに用いるのではなく、制度を発展させるためのプロジェクトや啓発に結びつけるべきだ」という主張として解釈することができよう。このようにみると、ローティの哲学は、リベラル派の政治思想とは別に、自由主義のプロジェクトとしての意義をもちうる。普遍的な人間性への期待から、開かれた社会と人間関係を構築していく企図としての自由主義――ローティの哲学から見出せる希望は、こうした自由主義の理念であるだろう。

ローティはしばしば、自らの立場を「エスノセントリズム(民族中心主義)」であると規定するが、しかし普遍的な価値が内生的に生じる方途を否定しているわけではない。なるほどローティは、理性による普遍的な人間性の理解というものを拒否する[13]。しかし他方では、「わたくしたち」という連帯の感覚を、これまで「彼ら」と見なされてきた人々に拡張していく営みに期待をかけている。

 

「エスノセントリズムの呪いは、『人類』あるいは『すべての理性的な存在者』といった最大限の集団をもちだせば解けるものではない。…そのような集団に自らを同一化しうる人は誰もいない。その呪いを解くのはむしろ、それ自身を拡張し、さらに大きな、いっそう多様性に富むエトノスを創造するのに貢献する、『わたくしたち』(『わたくしたちリベラルたち』)のエスノセントリズムなのである。ここでいう『わたくしたち』は、エスノセントリズムに疑いを抱くところまで到達した人々からなる『わたくしたち』である。」[Rorty 1989=2000: 411]

 

ここでいうエスノセントリズムに懐疑的な「わたくしたち」とは、例えば、共通の紐帯から逸脱傾向にあるコスモポリタン的な文化人であるだろう。よりコスモポリタン的な視点から連帯の倫理を拡張していくならば、文化的流動性のなかから内生的に普遍的なものが生成することに期待をもつことができる。さらに、そのような文化的流動性を社会的に支援・促進するならば、普遍の生成は、豊かに醸成されるだろう。

普遍的価値の生成を意図的かつ作為的に醸成する政策理念を、「自生化主義」と呼ぶことにしよう。わたくしたちの連帯の拡張を、たんに自生的なものとして傍観するのではなく、これを積極的に推進する「自生化主義」は、言語によって人類共同体への想像力を逞しくすることに結びつく。ローティのいうエスノセントリズムに懐疑的な「わたくしたち」とは、ある意味で、自生化主義に基づく連帯的想像力を支援する立場にたつ者である。そしてこの立場は、たんに世界政府の樹立を希求するのではなく、むしろ国民国家共同体の連帯から逸脱する実践のなかに、その固有のアクチュアリティを見出すであろう。ローティは、アメリカの夢が民主主義国家の完成であると主張するが、アメリカ国民の利害が世界中に存在する現代世界において、それは必然的に、世界民主政府への希望を志向せざるをえない。連帯は国境に制約されるものではない。その理念は世界大に拡張可能なものであり、ローティのいう「アメリカ未完のプロジェクト」は、これを制約する基準を与えていない。

ローティは、アメリカの社会思想史を振り返りつつ、ホイットマンとデューイが掲げた社会的目標、すなわち、「より多様な個人――もっと心が広く、もっと心が豊かで、もっと想像力に富み、もっと勇敢な個人――を創造すること、そして、より新奇でより豊かな形式を可能にする主体を生み出すこと」という目標を継承する。そしてもしこの目標を世界大に拡張するならば、それはネグリ=ハートのいう「マルティテュード」の理念とも重なるであろう。しかしローティのいう「アメリカ未完のプロジェクト」とは、新奇な主体としてのマルティテュードを生み出すことではない。なぜならローティの掲げる主体は、「社会的希望」をもつ楽観的な人間であるのに対して、ネグリ=ハートのいうマルティテュードは、絶望のエネルギーを昇華することによってはじめて社会に希望を見出す主体に他ならないからである。ローティが受け入れないのは、まさに、絶望や悲観を政治的エネルギーに変換しようとする企てである。

ローティのリベラル派とネグリ=ハートや根源的民主主義の政治思想を区別するものは、「希望のエネルギー」と「絶望のエネルギー」の区別であるだろう。青春時代にノンポリ文芸家として過ごした人々は、政治的希望を楽観的に語るエネルギーをもつ。これに対して抵抗と反抗の精神に満ちた青春時代をおくった人々は、政治的絶望を語るエネルギーをもつ。希望のエネルギーは、集合的な希望としての連帯、所得再配分、セキュリティ・ネットワーク、福祉社会、平和、友愛の理想、などの理念と結びつく。これに対して絶望のイデオロギーは、政府批判、行政エリート批判、ダム建設反対、原発反対、遺伝子組換え作物反対、道路公団の民営化、戦争反対、国家に対抗するNGOの支持、などの要求と結びつく。希望のエネルギーは、人々の全能感を、知の快楽とその政治的保障から引き出すのに対して、絶望のイデオロギーは、全能感を体現する集合体(国家やWTO)を批判することから対抗的に引き出す。希望のエネルギーは「平和主義とセキュリティ対策」を肯定するが、絶望のエネルギーは「戦争反対と国益重視反対」を訴える。希望のエネルギーは、構成された権力の基盤の上に開花するが、絶望のエネルギーは、根本原理を成り立たせている社会の構成的権力を批判的に捉えるスタンスの上に開花する。希望のエネルギーは、答えの出る問題に関心を寄せるが、これに対して絶望のエネルギーは、無理難題を問題化して、これを引き受けようとする。希望のエネルギーは旧社会民主党のイデオロギーを復活させるものであるが、絶望のエネルギーは、醒めた社会科学的思考にもとづく自生化主義を志向する。

以上、さまざまな観点から「希望」と「絶望」の政治的エネルギーを対比してみた。これらの対比からみえてくるのは、自生化主義と内生的普遍の担い手は、ローティの希望を超えて、絶望を糧としなければならない、という点である。逆説的ではあるが、絶望から出発する個人こそ、みずからのポテンシャルを最大限に引き出す課題に希望を見出すことができる。ローティの魅力は、イデオロギーや哲学の背後に隠されている「人間の醜さ」を抉り出すことにあるが、そうした洞察力は冷笑的なアイロニーを超えて、絶望のエネルギーへと向かう力を秘めているだろう。ローティのいう社会的希望をさらに深化させるためには、絶望のエネルギーを取り込んだ自生化主義を志向しなければならない。もっともここまで考察を拡張すると、もはやローティの限界を指摘するに等しいであろう。

 

 

文献

Bernstein, Richard [19912002] “Rorty’s Liberal Utopia,” in Sage Masters of Social Thought: Richard Rorty, vol.3, edited by Alan Malachowski, Sage Publications.

Cleveland, Timothy [19952002] “The Irony of Contingency and Solidarity,” in Sage Masters of Social Thought: Richard Rorty, vol.3, edited by Alan Malachowski, Sage Publications.

Festenstein, Matthew [2001] “Pragmatism, Social Democracy and Political Argument,” in Matthews Festenstein and Simon Thompson eds., Richard Rorty, Cambridge Polity Press.

Fraser, Nancy [1990] “Solidarity of Singularity? Richard Rorty between Romanticism and Technocracy,” in Reading Rorty: Critical Responses to Philosophy and the Mirror of Nature (and Beyond), edited by Alan Malachowski, Basil Blackwell.

Gander, Eric M., [19992002] “Liberalism and Cruelty,” in Sage Masters of Social Thought: Richard Rorty, vol.3, edited by Alan Malachowski, Sage Publications.

Kekes, John [19962002] “Cruelty and Liberalism,” in Sage Masters of Social Thought: Richard Rorty, vol.3., edited by Alan Malachowski, Sage Publications.

McCarthy, Thomas [19902002] “Private Irony and Public Decency: Richard Rorty’s New Pragmatism,” in Sage Masters of Social Thought: Richard Rorty, vol.3, edited by Alan Malachowski, Sage Publications.

Mouffe Chantal [1996=2002] “Deconstruction, Politics and the Politics of Democracy,” in Chantal Mouffe ed., Deconstruction and Pragmatism, Taylor & Francis Books, シャンタル・ムフ著「脱構築およびプラグマティズムと政治」、シャンタル・ムフ編、青木隆嘉訳『脱構築とプラグマティズム――来るべき民主主義』法政大学出版局.

Rorty, Richard [1998=2000] Achieving Our Country, Harvard University Press, リチャード・ローティ著、小澤照彦訳『アメリカ未完のプロジェクト』晃洋書房.

Rorty, Richard [1989=2000] Contingency, Irony, and Solidarity, Cambridge University Press, リチャード・ローティ著、斎藤純一/山岡龍一/大川正彦訳『偶然性・アイロニー・連帯』岩波書店.

Rorty, Richard [1982=1985] Consequences of Pragmatism, The University of Minnesota, リチャード・ローティ著、室井尚/吉岡洋/加藤哲弘/浜日出夫/庁茂訳『哲学の脱構築――プラグマティズムの帰結』御茶の水書房.

Rorty, Richard [1988] “The Priority of Democracy to Philosophy,” in The Virginia Statute of Religious Freedom, ed. Merrill Peterson and Robert Vaughan, Cambridge University Press, リチャード・ローティ著、冨田恭彦訳「哲学に対する民主主義の優先」『連帯と自由の哲学――二元論の幻想を超えて』岩波書店、所収.

Rorty, Richard [1979=1993] Philosophy and the Mirror of Nature, Princeton University Press, リチャード・ローティ著、野家啓一監訳、伊藤春樹/須藤訓任/野家伸也/柴田正良訳『哲学と自然の鏡』産業図書.

Rorty, Richard [1999=2002] Philosophy and Social Hope, Penguin Books, リチャード・ローティ著、須藤訓任/渡辺啓真訳『リベラル・ユートピアという希望』岩波書店.

Topper, Keith [19952002] “Richard Rorty, Liberalism and the Politics of Redescription,” in Sage Masters of Social Thought: Richard Rorty, vol.3., edited by Alan Malachowski, Sage Publications.

 



[1] ただしローティは、市場経済の枠組みを認めた上で、一つ一つ改良していくことのできる課題に左翼は専念すべきである、と主張している。

[2]  ローティによれば、こうしたポストモダン的な自己像は、ニーチェやデリダやフーコーが掲げる「自律」の理念を拒否する。「ニーチェ、デリダ、あるいはフーコーのような自己創造のアイロニストが求める類の自律とは、社会制度の中にそもそも具体化できる種類のものではない。自律とは、すべての人間存在がその内部に持っていて、社会が人間存在を抑圧することをやめれば解放することのできるような何か、ではないのだ。それはある特定の人間存在が自己創造によって手に入れたいと希求するものであり、実際に手に入れる者はわずかなのだ。自律的になりたいという欲求は、残酷さと苦痛とを避けたいというリベラルの欲求…とは関係がない。」[Rorty 1989=2000:136] ここでいう自律は、実際の社会で要求されているレベルの自律とはかなりの開きがある。例えば、経済的自律、投票行為における自律、住居選択の自律、といった自主性への期待とは異なる。ローティは、自律への希求を私的領域に限定するというが、しかしそれは「達人的な自己感性の理想」であって、社会の中で自己実現したいというレベルの自律への欲求とは区別されよう。私的領域における「自己(self)」と公的領域における「主体(subject)」を区別するならば、ローティは「自己」の自律を語るが「主体」の自律を語っていない。

[3]  「科学、『科学主義』、『自然主義』、自己客観化に対する恐れ、つまり、あまりに多くの知識によってわれわれが人格よりはむしろ事物に変えられてしまうことに対する恐れは、すべての言説が通常的言説になってしまうことに対する恐れである。すなわち、われわれのあらゆる問いには客観的に真か偽かの答えがあり、したがって、人間の価値は真理を知る事のうちにあり、人間の徳はたんに正当化された真なる信念にすぎない、ということになってしまうことへの恐れに他ならない。このことにわれわれが恐怖を覚えるのは、世の中にはまだ新しいものがあるという可能性、たんに観照的であるよりは詩的であるような人生の可能性を、それが摘み取ってしまうからである。」[Rorty 1979=1993:449]

[4]  「文化を「合理化」または「科学化」できるという啓蒙の希望としてでなく、文化をまるごと「詩化」できるという希望として、リベラリズムを描き出す必要がある。…ブルームのいう「強い詩人」がその文化的なヒーローであるような政体が、リベラルな政体の理想なのだ。」[Rorty 1989=2000:114] 「アイロニストは文芸批評家の書物を読み、彼らを道徳に関する助言者として受け取る。なぜなら、このような批評家は例を見ないほど幅広い交際をしているからに他ならない。彼らが道徳に関する助言者であるのは、道徳に関する真理に対して特別に近づくことができるからではなく、つきあいの幅が広いからである。他の人と比べれば、多くの書物を読み、そのため、何か一冊の本の語彙にからめとられないでいられる好位置にいる。」[Rorty 1989=2000:168]

[5] 「ある種のトピックや言語ゲームがタブーとされる――ある社会に、〈特定の問いにつねに意味がある〉〈特定の問いが他の問いに優先する〉〈議論には固定された秩序がある〉〈話をわざとずらすような話法は許されない〉といった一般的な合意がある――場合にのみ、人為的で理論的な行き詰まりに対比される、現実的で実際的な行き詰まりがあることになる。そのような社会こそまさに、リベラルが避けようとしている社会――「論理」が支配し、「レトリック」が禁止される社会――なのである。」[Rorty 1989=2000: 111-112]

[6]  「理想的なリベラル社会をまとめあげる社会の接着剤は、次のような合意のほかにはほとんどない。すなわち、社会組織の要諦は全員に自己創造の機会をもたせて、彼/彼女の能力をもっともよく発揮させることにあり、この目標のためには、平和と富とならんで、標準的な「ブルジョア的自由」が必要とされる、という合意である。」[1989=2000:174]具体的な目標としては、「たとえば、原子や人々の振る舞いを予測したり制御したりすること、ライフ・チャンスを平等化すること、残酷さを減少させること」が掲げられている。

[7]  この考え方は、批判的討議を重ねることによってよりよい政体をめざすという考え方を支える「真理メディア説」とも対立する。拙著『社会科学の人間学』勁草書房[1999]第2章参照。

[8]  同様の指摘として、Cleveland [19952002: 175]を参照。

[9]  ナンシー・フレイザーは、ローティの政治においては、私的な事柄を政治化する正当な政治や文化的ヘゲモニーをめぐる政治闘争というものが存在しえないと批判している[Fraser 1990: 314]

[10]  「若者に自分自身の社会化の過程についてたえず疑念を抱かせるような仕方で、彼らを社会化する文化などというものは、私には想像できない。アイロニーは、そもそも本来、私的な事柄であるように思える。」[Rorty 1989=2000:180] ナンシー・フレイザーは、ローティの立場が「ロマン主義的衝動」と「プラグマティクな衝動」の妥協であると論じている[Fraser 1990:305]

[11]  「新しい「解釈学的な」社会科学への期待は、もはやほとんど「道徳的」とは言えないくらいに薄っぺらになった用語で――つまり、「快楽」、「苦痛」、「権力」といった用語との定義による結びつきからけっしてはみ出ないような用語で――社会政策を定式化する傾向に対する反動として理解するのがもっとも適切だと思われる。」[Rorty 1982=1985:425]

[12]  トーマス・マッカーシーのローティ批判もこれと同様の指摘をしている。McCarthy [19902002:191]参照。

[13]  「『普遍的な妥当性がもつ超越的契機によって、すべての偏狭性は粉々にされる…要求として掲げられる妥当性は、事実上確立されているにすぎない慣行=規範が社会的に通用していることから区別される。にもかかわらず、この妥当性は既存の合意の基盤となっている』と、ハーバーマスはいまだに主張したがっている。まさしくこのような普遍的な妥当性の主張こそ、私が『言語の偶有性』と呼ぶものによって受け入れがたいものとされてしまった当のものであり、私のいうリベラルなユートピアの詩化された文化が、もはや作り出さないものである。」[Rorty 1989=2000:142]